ALBA お店紹介 


 私共“アルバ”を紹介させていただくにあたり、クリエテ関西が発行しています月刊誌“あまから手帳”の昨年9月号にオーナーシェフの嶋田順弘と心斎橋店が掲載されていますのよろしければご覧下さい..

イタリアレストランやイタリア料理にかける嶋田の思いをお伝えすることが出来ると思います.


「世間の風潮に流されず、夢を秘め、ただそこへ向かう」

  フレンチからイタリアンへ 時代を見据えた決断

心斎橋筋、大丸と旧そごうの間の通りを少し東に進むと,飲食店ばかりが入った小さなビルがある.その1階がイタリア料理店「アルバ」だ。表の黒板には、手書きのおすすめ料理が記されている.わずか20席足らずの小さなリストランテ。テーブルの間隔も狭く、調度品が豪華と言うわけでもなく、カトラリー類も上等ではない。だが,開店の1975年以来、いつ訪れても満席の店である。
 オーナーシェフの嶋田順弘さんは1944年生まれ、今年59歳を迎える。出身は奈良県で、実家は材木業を営む。両親は、家業を継がせるべく教育を施した。だが、本人は「冬場の材木業は肉体的にきつい。男仕事かもしれないが自分には向いていない。食べ物商売で独り立ちしたい」と、高校時代にはすでに、進路を料理人と定めていたそうだ。そして大学3年生の時、猛反対をする両親をなんとか説得し、あべの辻調理師専門学校に入学した。当時西洋料理といえばフランス料理が主流である。嶋田さんも多分にもれずフランス料理を学び、卒業後は、数軒のフレンチレストランで働いた。だが、しばらくして、嶋田さんの人生を方向づける出合いが訪れた。

 開店間もない神戸のイタリア料理店「ベルゲン」に先輩の紹介でもぐり込むことになったのである。フランス料理はソースに素材を合わす料理。こういった料理を果たして日本人が毎日食べるのだろうか、という疑問を抱き始めた頃とも重なっていた。 「『ベルゲン』の料理は新鮮でした。目からウロコが落ちる思いでしたね。日本人が好きな麺類がある。味付けもシンプル。これは絶対に受けると確信したのです。」 この先に訪れる日本人の食生活の姿を、直感で見抜いていたのだ。35年程前の話である。
 

 『ベルゲン』で数年修行した後は、イタリアに渡った。1ヶ所で修行をするのではなく、イタリア各地の料理を見につけたいと、国内をくまなく巡るという行程である。『ベルゲン』のバターやクリームを使った北イタリア料理だけがイタリア料理ではない。もっと,日本人の舌と胃袋にあった料理があるかもしれない。そんな思いで、高級店から街の安食堂まで、あらゆるジャンルの店の料理を食べ歩いた。
 料理人を目指した時から、「独立」という二文字が頭に常に刻み込まれていた嶋田さんにとって、この
1年半に渡るイタリア巡りは、すべて、独立時のメニューを組み立てるための研究であった。
 本国に修行に出る料理人は極めて多いが、そのほとんどは、現地の料理に触れ学ぶことが目的だろう。
 だが、30年近くも前に、どういった料理が日本人に合うのかという判断基準を持って、イタリアを旅したのだ。そこには、料理人と同時にオーナーとしての視点が、はっきり読み取れる。
 帰国後、大阪・心斎橋の現在の地で『アルバ』を開く。前菜、パスタ、リゾット、魚・肉料理、デザート、ワインまで揃えたリストランテの誕生である。当時の街中のイタリア料理店といえば、ピッツァかスパゲッティが主流の時代。そんな中でリストランテをオープンさせるにはかなり勇気が要ったはずだ。 
 「開店する時は、絶対に流行らすっていう200%の自信がありました」と嶋田さんはこともなげに言う。その自信の源は?と聞けば、「自分で食べてそう感じたんですよ。イタリア料理は、素材の持ち味を最優先します。それは和食に通ずるところがあるのです。例えばカルパッチョという料理はその典型。鮮度の良い魚の風味が生かされた一品です。ステーキもそう。焼いて塩とコショウで味付けをするだけで、ソースで食べさせるのではない。そんなシンプルさが、素材重視の日本人の味覚に合うと確信してました。だから、店の前を歩いてる人はみんな並ばせるぞ、って意気込んでましたね。そして実際そうなりましたから(笑)」との答え。確かに、当時、『アルバ』の前にはいつも行列が出来ていた。

繁盛店としての絶えまない努力

 『アルバ』の開店当時の料理に、スパゲッティ・カルボナーラやホウレン草のサラダ、ミラノ風カツレツなどがある。どれも飾らない料理だが、素材の持ち味をきちんと引き出すテクニックは見事で、それまであったイタリアンとは一線を画していた。特にホウレン草のサラダは、ホウレン草に熱いオリーブオイルをかけたものだが、温度や酸味とオイルの相性が素晴らしく、新鮮に映った。まさに、嶋田さんが開店前に描いていた、“シンプルなイタリア料理”の良さが、全面的に展開されたメニューである。そして、このようなメニューを求めて大阪中から客が訪ねてきたのであった。

 今は、シンプルだけでなく時代に流れをうまく取り込んだメニューも目立つが、基本は王道の組合わせだ。現地の味わいを踏襲しながらも、時代の流れを巧みに組み込んでいる。嶋田さんは、新しいものを発見するため、毎年10日間は店を閉め、スタッフと一緒にイタリア研修旅行に出かけてきた。本国の古典から現在までの料理を食べ、そこに集う人達の立ち居振る舞いを吸収した。その努力があったからこそ、心斎橋という、流行の変化が激しいエリアで、今も繁盛店という地位を保つことができるのだ。このほか、嶋田さんはシェフの勉強会にも積極的に参加し、若いシェフたちの発想を貪欲に吸収している。また料理雑誌を丁寧に読み込み、そこからも時代に流れを汲み取る。気になる料理があれば、すぐにでも試作をするという。こうして30年の間に、料理は少しずつ変化しているのだが、それは決して劇的な変わり様ではない。いつ訪れても、同じ雰囲気を醸し、食べる側に安心感を与えている。そして、古びてゆくことのないリストランテとして客を魅了し続けている。

 「頑固なんですよ、昔から。僕も手作りの洋服を作っているので分かるんですが、結局のところ職人なんです。自分のことは自分でやる。一直線に生きてる男やと思います.」。中学の同級生で『ムッシュ榊』というブランドを持つ服飾デザイナーの榊 隆司さんは、嶋田さんのことをこう話す。「技術者はいつまでも現場にいたいと思っているけれど、若い優秀な人がどんどん出てくる。彼も焦っているところがあるかもしれません」という榊さんの言葉に対し、ほぼ同年輩のフランス料理『ル・ヴァンサンク』の原 彬容シェフは、「歳をとったらとるほど、本もようけ読まなあかんし、若い人間から吸収せなあかんやろ。自分で店をやってる若い料理人には必ず何かがあるんやから。それは調理法とかそんなんやあらへん。彼らの考えを知りたいだけや。だから週に1回は一緒に食べにいこうと言うてるんや」と話す。
 こういった仲間がいるのも嶋田さんの人徳だ。

頑に守り続けた夢は、一軒家のリストランテ

 『アルバ』は開店から今日まで満員御礼の店である。にもかかわらず、移動もせず、客席を増やすことをしない。繁盛すれば拡大しようとする。これは飲食業のなかば常識だ。だが、嶋田さんはその道を通らず、ひたすら20席のリストランテを守ってきた。何故?という疑問を抱くのは、僕だけではないはずだ。
 「実は、一軒家のリストランテをやりたいのです。土地は既に手に入れてるんです」。嶋田さんは、ふいに、こんな話を始めた。
 「料理人になりたいと思った時から一軒家のレストランをと考えていました。場所は郊外です。それ以上のことは、今は言えませんが」。
 少し照れたように話しながら、真っ直ぐな視線をこちらに向けた。確固たるイメージを持って人生を送ってきた料理人の眼差しである。

 75年の開店から、バブル景気もあり、きっと想像もつかないような誘惑もあっただろう。多くのレストランが支店を出し、拡大政策をとってきたなかで、自らはどんなに繁盛しようが、頑に動かなかった。
 「親の反対を押し切って料理人になったのです。兄にも家の仕事を押し付けた形になります。ですから、そんな家族の気持ちに応えるためにも、一軒家という長年の夢を実現したいのです」。
 奈良の裕福な材木業の息子として幼少期を送った嶋田さん。緑に囲まれて育つうち、自然の中で食事をする優雅さを身につけていった。だからこそ、事業を拡大することに目が向くのではなく、一軒家のレストランという、ゆったりと食事を楽しむ歓びを心に抱き続けていたのだろう。そこには、家族の在り方をも問いかける、心の豊かささえ感じられる。そして今、嶋田さんの2人の息子が、父と同じくあべの辻調理師専門学校に通っている。おそらく一軒家のレストランには、この息子たちが料理人として加わることになるだろう。
 現在、多くの若い料理人が独立を果たし、小さなレストランを営んでいる。彼らが今後いかなる道を歩むのか、様々な形がある。だが、嶋田さんが見つめ続けた道も、彼らの理想のひとつであって欲しいと願う。そして、食べる側としては、頑固さとロマンをいつまでも失わず、一軒家になっても常に時代に風を感じることができるように、と思うのだ。

そして20046月 嶋田の夢であった一軒家のリストランテが奈良の地にオープン致しました.

末永くよろしくお願いいたします。

以上 月刊誌“あまから手帳”の20039月号の記事をそのまま掲載させていただきました。

『あまから手帳』
20039月号より
料理人物語 27 イタリア料理 「アルバ」 オーナーシェフ 嶋田順弘さん

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